ひっそり久しぶりにあげる。

今や令和の時代で、令和元年の流行語大賞なるものも発表されたわけですけども。
そんな中で高2の娘の部屋の本棚に「1980年大百科」なるものを見つけました。

僕が忍ばせたわけですが。

そんな中で昭和の時代を振り返る本を見ると、「ちびっこ」という言葉の響きの心地よさに感慨ふける自分がいるわけです。

鹿児島の僕の叔父が、「ちびっこ達」のことを方言で「ちんこんし」と言っていたのを思い出しましたが、それも踏まえて小学生を「小さい子ども」と称し、「ち」の後に「び」や「ん」を入れることで「ちびっこ」「ちんこ」と言ってしまう昭和のセンスに今さら心が打たれます。

半世紀前は小学生は皆「ちびっこ」でした。
今では170センチを超える小学生も珍しくないですが、当時はそんな希有な小学生は教師から「おまえはもう生えちょっとか?(生えているのか)」とセクハラまがいのことを言われたものです。

「ちびっこ」の規定から外れると「毛が生えている」という固定観念を大人達が持っていたのですが、あながち間違っていないようにも思います。

もし今SNSをやっている小学生が「ちびっこ」と呼ばれる環境にいるなら、ワイドショーで取り上げられる事件などより重大さを増すでしょう。

あの頃、キン肉マン消しゴムを交換するために知らない大人が介入することはありませんでした。

しかし、令和の子ども達は違います。
知らない大人が子供の遊びに介入できます。

だから、いっそ思うんですね。

小学生はみんな「ちびっこ」と呼べばマイルドになるんじゃないかと。

「小学生女子児童」ではなく、「小学六年生のちびっこがSNSで知らない男性と知り合い・・・」というニュースであれば、「ちびっこ」という表現が大人をもっと敏感にさせるはずです。

なに!ちびっこがSNSで!!

と、もっとこの事実を非現実的な社会現象だと思うはず。

「ちびっこ」という言葉には社会に心が剥かれていない無邪気さや清らかさがあるように思います。

「子どもは子ども」、よって「ちびっこ」。
子どもがちびっこであれば、再び日本の子ども達は汚れずに済む。

「ちびっこ」という響きに突然興味を示した話でした。