自我が芽生えるのが2,3歳ぐらいだと聞いたことがある。
僕の場合、人との距離における空気感の違いを無意識に感じていて、世界が違う大人とは4歳ぐらいから小学生5、6年まで喋れなかったし、それまでの間、空気感の違う同級生とも喋れなかった。
だから友達は少なかった。
娘が幼かった頃に娘を見ていて、同じように感じていると思っていた。
3歳ぐらいから小学生高学年まで同級生を怖がっていた。
特に女子だから面倒なことが多いようにあったと思う。
娘も俯瞰して人間関係を見ていたように思う。
特に友達を作れとも言わなかった。
娘は3歳までほとんど喋らなかったので、
6歳ぐらいの時に「なんで3歳まで喋んなかったの?」と聞いたことがある。
6歳ぐらいの時に「なんで3歳まで喋んなかったの?」と聞いたことがある。
娘は、「自分がなんなんだろう、ここはなんだろうとずっと考えてた」みたいなことを話していた。
この世界が何なのか考えていたそうだ。
そんな娘に小一ぐらいの時に話したことで共通した話がある。
「俺さあ、4歳ぐらいの時、自分が見ている赤色が他の人にも同じ色で見えているのかなあって思うことあったんだよ。この赤って同じように赤に見えているのかなあって」
すると娘も、「私も今見ているこの色がみんな同じ色に見えているのかなあって考えてた」と。
他人にこの話をしたことがないが、娘と子どもの頃の思考が一致した。
誰でも思うことなのか?
僕と娘は無意識に俯瞰してしまうのだろう。
見ているものに入り混めばいいのだが、時に重要な場にいる時こそ入り込めないのは僕にはあった。
重要と言っても、大好きなバンドのライブだったり。
「あーこの会場でライブの観客の一人としているんだあ」と思いに浸ってしまい、いまいちノレない。
あと、会社だったら重大な打ち合せとか。
非日常的な日常が素でいられる。
父が介護が必要な状態になった時もそうだった。
何か自然だった。
娘も一本の木だけを見てはいなくて、今いる自分の森の中で、切っていい枝や育てなくていい木や、木の根に生えている松茸を見つけたり、苗木を植えたりしているように思うのだがどうだろう?
スマホしかいじってないけど。
ただ、僕に似て嫌な森なら違う森を探すし、居心地のいい森なら新しい木を生やすのだろう。
それでいいと思うので、ただただやりたいことをやって欲しいだけだ。
そんな娘が最近推薦入試を受けた。
一応、「俺は高3の時に受けた推薦入試は落ちたから」と伝えておいた。
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