中2で中年なプランナーの空想的日常

ただただ昭和のゲームプランナーでおっさんな僕が日常や妄想を書いていきます。

カテゴリ: 日常コラム

婆さん(母親)にコロナワクチン接種の通知が届いた。

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よく見ると、「これから始まる接種に備えての準備をしていてください」的な告知だが、「重要なので大切に保管してください」だそうだ。

あと、「クーポン券を貼ってください」という紙も入っていたが、婆さんにとっての「クーポン券」とは「割引券」ではないのか。

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ただ、通常あるような年寄りが読めない小さい字ではなく、大きめの字でそこは配慮されていた。

ちなみに注射嫌いの母の妹(叔母)は、「私は打ちたくない」と言っているらしい。

その叔母さん曰く、「みんなが打てばコロナにかからないからいいのよ」。

副反応やいろんな意味があるにせよ、そんな年寄りが少なくないような気もする。。。

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鹿児島で非常勤講師をしている専門学校の卒業式だった。

久しぶりにスーツを着たら虫が喰っていた。
革靴を実家に持って来てなかったので、父親の革靴を履いて行った。
ほぼ体型が父親と一緒なのだ。

靴の中敷きに名字が書いてある。

母親に「なんでもかんでも名前を書くなよ・・・」と言うと、
母「お父さんが飲み屋に行った時に新品の革靴で行ったのに、他の人に履いて帰られて、おんぼろの他人の革靴で帰って来たから、それから名前を書くようになったのよ」
と。

それから傘や下着にも名前を書くようになった。

その靴を履いて1時間に2本ぐらいの電車に乗って鹿児島市内に行ったところ、鹿児島中央駅付近で靴底がぱかぱか言い出した。

かかとのクツ底ゴム部とクツ本体部が乖離しているのである。

とりあえずぱかぱかを抑え気味に歩いていると一瞬身が軽くなった。

と、共に数センチ身長が下がった。

数歩歩いて違和感を感じて振り返ると、そこには靴底があった。

「あなたが落としたのは、この黒い靴底ですか?それとも金の靴底ですか?」
「黒いのに決まってんじゃねーか」
とばかりに慌ててゴムの靴底を拾ってバッグに入れて逃げるように近くのコンビニへ。

片方の靴底がなくても周りにはバレない。
駅前なのでコンビニがすぐあった。

強力接着剤を買う。

こっそり付ける。

そして卒業式へ。


さて。
「卒業」というものは、高校の卒業式がピークで、大学や専門学校の卒業式はあっけない。

「就職」するための「通過点」でしかない大学や専門学校の卒業式は、会社での入社式が本当の「卒業式」なのかもしれない。

何になるかわからないまま、いろんな人間が集まっていた高校時代には、社会人にある「仕事」中心では出逢えない出逢いがあって、そこに浅く混沌として甘く薄い生き方があり、弱さの中に甘酸っぱさもあったりして、それは大人というものになって社会というものに入ってしまえば消えてしまう時間だった。

一つの校舎、一つのクラスに集まっていた人達がそれぞれに散っていくのが高校時代だった。

それはもう三十年近く前の話だ。
高校の卒業が、本当の意味での最初の卒業だったかもしれない。


大学の卒業式を思い出そうとした。

あの日、昼間に何をしたか覚えていない。
「追いコン(追い出しコンパ)」をサークルの後輩達がしてくれたことは覚えている。

朝まで飲んで帰りの新宿駅の改札で後輩達に胴上げされた。
そして朝日が昇る帰りの小田急線で、吉田という男の後輩が泣いていたのを思い出した。
何故か男だけの小田急線組の最後はみんな無言だった。

あの時は卒業の悲しさよりも新しい環境へのわくわくの方が大きかったかもしれない。


コロナ禍の今、関わった専門学校の卒業式は短く最小限の人数で行われた。

ただ、開かれただけでもありがたいことかもしれない。

泣く人はいない。

それぞれが社会人になっていく様が清々しかった。

僕は、学生という肩書きを卒業した時、自由になれる気がした。

やりたいことが出来るような気がした。

同じようなことを生徒達も考えているかもしれない。


・・・ただ、よくよく考えれば社会人って、いろいろ背負ったり考えすぎたり惑ったりすると、不自由でしかないのな。

これは、与えられた環境の中で体験しない限り教えられることではないなと思った。


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生きてます。

最近時間帯を無視して観られる番組配信が主流になってきた。

おっさん世代は子どもの頃、テレビはその時間帯でなければ観られないものだった。

「VHS」というものが普及し始めたのは、1985年頃以降だったかと思う。
まだ日テレの「11PM」は普通に女性の裸を押し出していたし、「トゥナイト2」では小森のおばちゃまがエロい映画を解説していた。

親が寝ているのを確認してこっそりどう観るかが、精神的性欲SASUKEだった。

そんな時代に10代を過ごしてしまうと、「動画配信サービスは配信者が決めた時間に観なければいけないもの」という「習慣」が付いたように勝手に思っている。

「これを観てくれ」というテレビ局側と、「どれが面白いか」を判断する視聴者との闘いが日々リアルタイムで繰り広げられていたように思う。

その闘いの時間帯に両者の食い違いがあるとお互いが悔しい思いをし、誰も得をしないものだった。

話は変わるが、僕は子どもの頃から「バイキング」(個人的には『食べ放題』と呼ぶ)が好きではなかった。

「どんだけ食べてもいいよー」と出された中にすごく食べたいものがあまりなかった。
結局単価の安いカレーで腹を満たしてしまうのだ。
あと、カニが出ていたらカニ一択だ。

同じように動画配信サービスは見放題で選ぶのはこっちである。
今は動画配信食べ放題なのである。
テレビバイキングだ。

そうなると、昭和世代の僕は選ぶのを放棄してしまう。
アマゾンプライムに入りながらも映画やアニメを1本も見ない月はたくさんある。
通販も頻繁にしないならやめればいいのだが、ふと気が向いたら観るのでやめない。
「ボメミアン・ラプソディ」を去年の12月に観た。

いっそ、「一日のこの時間はアマゾンプライムを観る時間にする」とスケジュールをエクセルで一人上手に作ってみたが2日続かなかった。

結局、リモコンの番組表で、「今日の番組の観るラインはこういってこう」と局の流れを決めたりしている。

ちなみに僕が地上波を観るのは、お金を掛けてスポンサーも付けて配信している局側への配慮でもあるのだ。

嘘です。

人は選択肢が少ない方が選び易いし、楽しみ易い。
時間に制限がある中で(基本自由だけど)、多くの中で選んだものは正解を自覚出来ない。

なので僕は地上波で提供される番組を選択し、それに少しBSがおまけで加わる。
それで十分な気がしている。

「これつまんねー」と気付くこともあるが、それはそれでいい。

Netflixだけは非常に気になるのだが、こっちに向かってくる動画が果てしない中でバイキング状態になり、もうお腹いっぱいとなるのだと思う。

食べたくない時に食べてしまいそうな気もする。

そんな中で、最近一番新鮮なチャンネル(アプリだけど)が「BIGOLIVE」だった。。。

ただ、素人のリアルタイムの日常を観るだけという。

しかもその時間帯でなければ観られない。

エロに必死だった中学生が大人になってエロの鎧をそぎ落とし、青空の下で今に至るような、清々しい気持ちで「BIGOLIVE」と対峙している。

ただ、心の鎖帷子はまだ脱げないでいる。










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